報道写真について

東北大震災から早や一年。

 

国民の81%は復興は進んでいないという意識を持ってるとニュースは伝えています。心から一日も早い復興を祈るばかりです。

 

この震災では、それはそれは多くの写真が世界中を駆け巡りました。携帯カメラの写真や、ビデオカメラから切り取られた写真などもそうです。生々しい画像は心を引き裂き、悲しみのどん底に突き落としもしてきたことでしょう。

 

ただその写真たち全てが後世への礎になっていく写真であるかというと少々疑問に残ってしまうのが僕の今の気持ちです。そもそも、写真の意味とは?と、考えたとき写っている悲惨な状況はそれさえ伝えれば写真の目的が果たされるのか?と言われたらどうにも納得できない自分が居ます。

 

誰もに、写真をちゃんと撮れ。などと言うつもりもありませんし、そんな何様よがりの言いぐさを吐きたい訳でもありません。彼らはプロではないのだから。

 

一年ともなると、ネット上でもまたマスコミ上でも様々な追悼の意を表した発信がなされいます。その中で、改めてそのものたちの意義を感じるような写真達に出会いました。それは、間違いなくプロフェッショナルが撮ったであろう写真達。きちっとクレジットも入っているのですからそこは信じたいと思います。

 

彼らが撮り続けてきた地獄絵図は、 もしかすると上記の写真たちからすると臨場感とかその場の殺伐とした勢いはあまり感じ得ないのかもしれません。が、その淡々と粛々とその現場の状況を伝えようとするその意識の高さはとても伝わってくるのです。

 

悲しみにさいなまれうつむく人のこれから先のこと。こんな困難に打ちのめされようとも気丈にも絶やさぬ笑顔で廻りを勇気づけてるおばあちゃんの心の先。ただ同情しもらい泣きすることで終わらせてはいけないという写真家たちの意思、想い、願い。

 

僕は、広告出だと言っていますが、 実は、学生時代は報道写真科に属していました。写真作家になりたかったんですね(笑)入ってみたら、「そんな甘っちょろい世界じゃない。たぶんお前なんか食ってはいけないだろうから辞めとけ」って脅かされて素直に道を変えてしまった。

 

あの頃の自分はそれこそ遊び半分でこの世界入ってきたんだろうな。ってそこからも容易に想像されるのだけど。。。世の中に溢れてる写真の大部分は広告だろうからまだ食いぶちは見つかるかなぁ、、、なんて、まあ今考えたらそれさえも甘ちゃんだったろうと推察されます。

 

授業の中で一つ忘れられない講師の言葉がありました。「報道写真とは、その事故や事件などが今後絶対あってはいけない。防げるものは何が何でも防ぐ。そのために起こった真実を本当を写真という記録に残し、今後の防止策に役立てるためにある。そのためには時には命を賭けることもある」軟弱な僕の心にも重くのし掛かった言葉でした。

 

戦争もそうです。テロもそうでしょう、またこのような震災もそうであるし、大火災などの事故、水難事故本来ならばあってはならないような痛ましい事件、事故が今この瞬間にも起きています。そして最も尊厳されるべきその生命たちが見るも無惨に失われ続けています。

 

報道写真家たちは、皆その使命をまっとうせんとして現場に向かうのでしょう。自分自身の身の危険を省みず。その場の臨場感や勢いはもしかしたらその場に居合わせた者であらばそれを伝える写真は撮れるかもしれない。けれど、その先にあるもの、その先を考えさせてくれる写真はそれこそ様々な状況を踏まえたうえで強靱なる意識を持たずしては伝えられないのではないかと思います。

 

それは、撮影者自体の想いであったり意識であったり、また願いであったり祈りでもあったり。彼らの写真は、四辺の隅々まで目を轟かせできる限りの情報を入れ込んでいます。そして、その一つ一つが確実に正確に伝わるように構成されているのです。しかもいとも簡単に撮ったかのように。

 

このような写真に対してはとても不謹慎な言い方になってしまうのをお詫びしておきますが、彼らの思い、悔しさ、無念さ、憤りが津々と胸に伝わる写真を見ると良い写真だなと思ってしまいます。現実を直視した上で、見る者たちに、「こんな事が二度と起こっちゃいけない、起こしてはいけない」という意思が切々と伝わる写真には感動すら覚えます。

 

どうかこの写真達が僕たちの心を奮い立たせるだけでなく、その筋の人たちの心にも伝わり何かしらの防護策を一刻も早く実現して欲しいと願ってやまないのです。

 

2012/03/03