親父が逝った。

『親父』が逝った。
今日ようやく世田谷のご自宅に伺い
お焼香させていただくことが出来た。
傷だらけの年期の入った露出計。。。握りしめてみた。
親父の体温をかすかに感じさせてくれたようだった。
十数年前にガンになってた。
その時、仕事仲間の皆が昔よく行った西新宿1丁目の焼き鳥屋に集まった。
少し痩せた親父はそれでも嬉しそうに焼き鳥を頬張りながら
昔話に花を咲かせ、最後にはあの頃と同じように、馬鹿笑いしながらみんなも親父も俺をからかう。
俺は、紅潮したふくれっ面で思いっきり悪態つきながらも
どこか心地よい気持ちになっていた。
車で少し酔った親父を自宅まで送りとどける。
それもあの頃はよくあることだった。
少し足取りが不安になりながらも、車のドアを開けながら、
「勝男 ありがとうな。大阪でも頑張れよ」
「はい!頑張ります!」
思えばそれが最後の師匠と弟子のやりとり。
あれから十数年…あっという間だった気がする。
9月1日ご家族に見守れながら安らかにご自宅で亡くなられたそうだ。
親父が居なければ、絶対にこの写真の世界には居続けることは出来なかったと言い切れる。
21歳の時に弟子入りし、以来7年もの間、本当に可愛がってくれた。
7年もの長さで、丁稚奉公的な時間を過ごす弟子など滅多に居ない。
よほど居心地が良かったのだと思う。
そのお陰で独立する時期が大幅に遅れたのではあるけれど。。。。
親父からは、正直言って写真の技術はほぼ教わってない(苦笑)遊びばかり教わったことしか覚えてないくらいだ。
けれど、自信を持って教わったと言えることがある。
「人との付き合い方」
これがあったからこそ、
未だこの世界で生きていられると自負してる。
遊びの中でも、仕事の中でも親父は、いつも周りを気にしながら生きていた。
口はとことん悪かったが、どこかに必ず優しさを隠し持っていた。
時代は変わったし、人との付き合い方もそれなりに変化はある。しかし、根本は変わってないと信じてる。
俺は、あれだけ世話になった恩人である親父になんの恩返しも出来ずに 逝かせてしまったわけだけど、ただ一つ出来ることがあるとすれば、そうした想いを後進にバトンを渡していくことだけだ。
山口周作 享年77歳
私は心からあなたの弟子になれたことを誇りに思っています。
そして心から、心から感謝しています。
本当にありがとうございました。
一番弟子だと豪語していたバカ弟子ではありますが、
もう一勝負させていただきます!この大阪で!
合掌